特別展「三国志」 東京国立博物館、行ってきました。
ひとことで書きますと、中国各地の「国家一級文物」(国宝)を、こんなにたくさん、こんなに間近で、ゆっくりと見ることが出来てしまって、本当にいいの?
こんなことが、頭のすみをよぎっていたのは確か。🙂
三国志の時代の背景の予習をしていけばよかった。🙃
「三国志」というと、吉川英治の小説『三国志』、横山光輝のマンガ『三国志』、NHKの人形劇『三国志』など、「三国志演義」と、三国時代(魏・呉・蜀)を舞台とする武将・知将たちの戦い、魅力的なキャラたちがイメージされます。
・・・ただ、あれだけ広い中国大陸、しかも古代の交通も通信も不便な時代で、魏・呉・蜀の社会や風俗がほとんど同じように描かれていたのが、ひそかに不満に感じてました。
北西地域の羌族との混血と言われる馬超や、南蛮(雲南南部からミャンマー北部)の王・孟獲など、少し違うように描かれてはいても、他はだいたい同じ描かれ方。(仕方ないとは思うけれども)
もっと違いがあったのではないだろうか?🤔
特別展「三国志」では、遺跡からの発掘物や墓の副葬品などから、それら三国時代の、魏・呉・蜀の三国だけでなく、さらには、交州(広東から広西)を支配していた"士燮"(海のシルクロードの覇者と説明されてた)、東北地方の遼寧周辺を半支配し当時の日本との通商にも関わりのあった"公孫"氏も絡めて、それぞれの地域の生活と、文化や宗教の違いも感じられると思います。
"魏"の曹操の墓「曹操高陵」がクライマックスで、その後に、 "呉" や "蜀" の墓の副葬品なども展示されています。
ブログの中の人は、重慶市(当時の蜀の支配地域)で発掘された「揺銭樹」台座の「辟邪」の有翼獣がお気に入り。
蜀の文化と社会はちょっと楽しそう。
そういえば、"黄巾の乱"の張角は 太平道で、漢中で独立できていた張魯は 五斗米道、どちらも原始道教で、当時の新興宗教、それなりに勢力をもって影響を拡げることが出来ていた。
日本の小説やマンガなどの「三国志」では、そういった国や社会、集団の宗教色は削られて、怪しげな呪い師が登場するくらいだったような...
小説やマンガの『三国志』に絡むところもすこし。
「弩」について。
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こういう"動く"物を見ると、どういう機構で動いて、三国志の登場人物たちがどう扱っていたのか、気になるのが人情というものです。🙄 キッパリ
現代のボウガンのように指で引き金を引くのではなく、片手で引き金(懸刀)を握って引く。
弩を撃つ時、照準(望山)を定める時は、顔の前で両手で掲げるようにしていたのでしょう。
的までの距離を目測して、照準(望山)の後ろの目盛りとつがえた矢の先とで、仰角を調整していたと考えられる。使い慣れたら、目の前で照準を定めなくても使える猛者もいたのではないでしょうか。
「撃つ時までは引き金(懸刀)に手をかけてはいけない」という教練はあったのだろうか?うっかり引き金(懸刀)に手をかけたまま、左右に動かしてしまい味方を誤射があったかも?
伏射や台に置いて撃つのでないなら、本体である木臂(もくひ)を持つ方の腕がかなり疲れそうです。
壁に展示してある「弩機」とその解説の写真は、牛が下に下りているので引き金(懸刀)を引いた後の状態だけど、弓の弦をひっかける鉤牙が立っている。
牛が沈んでいるなら、牙も沈んでいるはず。
弩機の構造をわかりやすく見せるために、不自然だけど、わざとその状態にしてあるのでしょう。