pelicanmemo

海外の話が多め。近頃は中国が多め(中国海警局・中国海監、深海潜水艇、感染症など)。

「黒人侍が1000人」というデマはどこからきたのか? アサクリ、弥助問題

 

いわゆる『弥助問題』。

こういったデマやフェイクで炎上した話題は、後になって、数ヶ月や数年も経ったころに「実はこうだった」「これが真実だ」みたいな陰謀論が出てくる場合もある。

そこで、一部の人が誤って煽ったり拡散していた、当時の日本には「黒人奴隷が1000人」や「黒人侍が1000人」というデマについて、今さらだと思うけれどもすこし書いてみたい。

このブログ記事は、この一点だけを検証したものです。弥助は”侍”の身分だったのか?等、炎上していた他の論点については触れていません。

このブログ記事では「黒人」という単語を使っていますが、トーマス・ロックリー氏の著作『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』の中の「黒人侍」「黒人」や内容に言及する必要があるため使用したものであり、差別的な意図はありません。

 

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最初、この「黒人奴隷が1000人」や「黒人侍が1000人」というデマは、「トーマス・ロックリー氏によって『黒人奴隷は日本発祥』というデマが拡げられた」、というデマと同じようにネットSNSのほの暗い底で産まれた、ロックリー氏とは無縁の根も葉もないデマだろうと思っていた。ちょっと違っていた。

「トーマス・ロックリーによって『黒人奴隷は日本発祥』というデマが広がっている」というデマ - 電脳塵芥 (2024-07-25)

 

あちこちで行われている検証、解説記事、X(Twitter)などネットSNSで言及されたように、トーマス・ロックリー氏は、日本語の著作『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』ではあいまいな表現を使いつつ、英語版の『African Samurai: The True Story of Yasuke, a Legendary Black Warrior in Feudal Japan.』では断定的な表現が散見される。

 

簡単に5行で説明

・「黒人奴隷が1000人」や「黒人侍が1000人」はデマ。

・ロックリー氏の著作『信長と弥助』(2017年2月7日初版発行)では、”1630年代までの期間に、述べ数百人のアフリカ人が日本に居住していたと見られている”と書いている(p.140)(赤字協調は管理人による)

・ロックリー氏は『信長と弥助』の英語版『African Samurai』では、数百人のアフリカ人が居住しており、一時滞在を加えると数千人がいたと書いているようだ。
英語版での断定的な書き方によって、ピュアな読者へ誤ったイメージを与えただろう。

・ロックリー氏が著作で「日本史上初の黒人侍」と書き、ゲーム『Assassin's Creed SHADOWS』の解説では「first black samurai」と紹介されている。ここから、弥助のあとにも2人目や3人目、「〜人の黒人侍」という連想がはたらき、さらに断定的な著述を切り取って「1000人の黒人侍」という妄想につながっている。

 

当時の日本に、弥助のほかに黒人がいたとしても全員が”SAMURAI(侍)”だったわけはない。欧米ではとくに、SAMURAI(侍)やNINJA(忍者)は日本風ファンタジー要素であり、キャラ属性への読者・視聴者による期待感が強すぎる。

弥助のほかに”黒人侍”がいたという根拠は示されていない。ここから「隠された歴史」「失われた真実」といったポスト・トゥルースの時代らしいキーワードがくっついて、デマやフェイクの創作に繋がっているようだ。

 

 

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正直なところ、こういった歴史的フィクション/歴史的ノンフィクションの作品では、著者や関係者の思い入れや思い込みによって創作と事実との境界があいまいになる。

トーマス・ロックリー氏の著作『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』を読んでみると、著者の「こうあって欲しい」期待感と、その期待感がもとになった想像力があちこちから感じられる。

ロックリー氏は、徳川家康に外交顧問として仕え250石取りの旗本に取り立てたウィリアム・アダムス(三浦按針)を調べていたときに、織田信長にめしかかえられた弥助を発見したのだそうだ。
著作『信長と弥助』の中でも、弥助と自分を対比した表現が散見される。日本社会のなかの外国人というところで、織田信長という超有名人に取り立てられた知られざるヒーロー弥助を見いだしたので、”推し活”を”節度を越えて”やりすぎたように感じられた。

 

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当ブログ記事の検証については、根拠を並べるだけなので読んでても退屈でしょう。

まず、このいわゆる『弥助問題』でのデマの検証や、事実確認、解説、X(Twitter)上のやり取りはこれらの記事が参考になると思います。
(X(Twitter)でのツイートやスレッドは、長くなるので紹介はしていません)

「トーマス・ロックリーによって『黒人奴隷は日本発祥』というデマが広がっている」というデマ - 電脳塵芥 (2024-07-25)

弥助問題「本人は芸人のような立場」「日本人の不満は当然」 歴史学者・呉座氏に聞く(上) - 産経ニュース (2024/8/5)

弥助描いた日大准教授の著書「発想に飛躍、検証不能な逸話も」歴史学者・呉座氏に聞く(下) - 産経ニュース (2024/8/5)

「地元」の解釈について。ロックリー氏に対するデマの発生過程の推測|niconicoffee(長谷川珈) (2024年7月28日)

『アサシン クリード』と「弥助」を巡る批判とその経緯──“政治的正しさ“への反発と“エアプ“について - KAI-YOU.net (2024.07.24)

『アサシン クリード』弥助問題に関する私見 | アゴラ 言論プラットフォーム (2024.07.22)

 

Dreamy History Assassin 1: How Did Thomas Lockley Edit Wikipedia?

Fact-Checking Yasuke: The Black Samurai in Assassin’s Creed

Yasuke: African Samurai, Myth, or Neither? (2023年10月10日)(今年の『弥助問題』での炎上以前に書かれたもの)(有料記事)

 

また、中公選書から2021年1月に発行された『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ 増補新版』、とくに「補章 イエズス会と奴隷貿易」の第3項「Ⅲ 長崎のアフリカ人奴隷」はとても参考になります。

大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ 増補新版 -ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子 著|全集・その他|中央公論新社

 

ネットで無料で読めるものでは、2018年2月に岡美穂子氏が帝京大学の経済史研究セミナーで発表した「南蛮菓子の文化的背景」がおもしろかった。おすすめ。

南蛮貿易のころ、ビスケットが日本から東南アジアへの主要な輸出品だったとは。知らなかった🙂

 

カステラの起源からはじまって、長崎での南蛮菓子の発達、卵食の習慣、ポルトガル菓子の起源、そして、アフリカ文化の影響について書かれています。

南蛮菓子の文化的背景 岡 美穂子 - reserchmapより抜粋。
(pdfファイル, https://researchmap.jp/read0066505/published_papers/35635251/attachment_file.pdf)

アフリカ文化の影響 
 ブラジルの「ケイジャディーニャ」にはアフリカの要素がかなり取り入れられているとのことだが、一七世紀初頭の長崎にも、アフリカ人が少なからず居住していたことは、諸資料から想定される。より視覚的なところでは、南蛮屏風には多くの褐色・黒色の船員たちが描かれており、よく見れば彼らの顔はインド系、東南アジア系、アフリカ系で描き分けられていることがわかる。最も古く、よく知られている話としては、イエズス会から織田信長に献上され、家臣として扶持を与えられたアフリカ人奴隷「弥助」であろうか。
 ポルトガル人が世界を連れて回ったこれらのアフリカ人奴隷たちは、「カフル人」と呼ばれた。「カフル」とはもともと、ポルトガル語で、モザンビークなどのアフリカ南東部地方を指す。ポルトガル人は世界各地で奴隷貿易に従事したが、実は最も高値で取引されるのが、このカフル人であった。というのも彼らは、ほかの人種と比べて健康で屈強、また強面であり、高い商品価値を持っていたから、彼らを従者として連れていることが、「富貴」の象徴とみなされたのである。
 それゆえ、ポルトガル人たちは、日本人に請われると、このカフル人を献上することもあった。『イギリス商館長日記』からは、平戸領主松浦隆信がアントニオという名のカフル人奴隷を所有し、長崎奉行長谷川藤継(藤広の弟)も、ジョン、ジョルジという名のカフル人奴隷を所有していたことがわかる。それ以外にも長崎市中には、ポルトガル人が連れてきた奴隷、解放奴隷などが居住しており、彼らの中にはアルコール中毒患者、窃盗、暴行を働いて捕らえられる者もおり、そういった関係の記事から、彼らの存在が明るみになる。
 電動機械のない当時、お菓子作りは大変手間のかかる作業であり、奉公人や家事奴隷によって担われていた可能性も高く、それぞれの出身地域の文化が、お菓子にも反映されていくようなこともあったのではないだろうか。

 

もしも、ロックリー氏がインタビューで語っているように長崎はじめ西日本に数百人のアフリカ人が居住しており、もし仮にその地域の大名に侍などに召し抱えられていたのなら、カステラや金平糖、ひろうす(飛竜頭)みたいに、九州はじめ西日本のさまざまなところでアフリカ文化の食べ物の影響が残っていると思うんですけどね。

 

野菜のオクラくらいしか思いつかない😅
(オクラは、1873年(明治6年)の記録が日本で最初です🙃)

 

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ここから検証パート。

ロックリー氏の著作『信長と弥助』(2017年2月7日初版発行)では、”1630年代までの期間に、述べ数百人のアフリカ人が日本に居住していたと見られている”と書いている。

ロックリー氏の著作『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』(2017年2月7日初版出版、太田出版)では、140頁にこう書かれている。

弥助はおそらく初めて日本の値を踏んだ黒人の一人だっただろう。しかし、最後の一人ではなかったのは確かだ。推定では、一六三〇年代までの期間に、述べ数百人のアフリカ人が日本に居住していたとみられている。その中にはヨーロッパ人に雇われた者だけでなく、日本人に雇われた者もいて、さらに独立して暮らしていた者もいた[69]。一六四一(寛永一八)年からオランダの東インド会社が交易所とて借用していた長崎湾の人口島、出島には[70]には、数世紀にわたって数人のアフリカ人が入れ替わり滞在していた[16][71](赤字協調は管理人による)

 

1630年代とは、ポルトガル船の来航禁止令(1639年)までを示しているだろう(スペイン船の来航禁止令は1624年)。長崎の出島が作られるよりも前の話なので、その後の出島の話は、根拠の信頼性を高めるための補足だろう。

 

種子島にポルトガル人も乗船する船が漂着したのは1543年。この後から南蛮貿易がはじまったとされる。

薩摩や平戸に南蛮船の来航はあったが不安定だったので、1570年に長崎がポルトガル船の入港地として開かれた。1571年からマカオと長崎の間で定期的な交易がはじまった。

ロックリー氏が『信長と弥助』で書いている「一六三〇年代までの期間」とは、主に1571年から1639年と考えるのが蓋然性が高い。

約10年後、1581年3月にイエズス会の宣教師ヴァリニャーノに伴って日本に来ていた弥助が、織田信長と初めて会った。

1582年6月21日に本能寺の変が起きて織田信長が死亡。
1587年7月24日に豊臣秀吉によりバテレン追放令、1639年にポルトガル船の来航禁止令となった。

バテレン追放令の後も、日本側としてもマカオを経由した南蛮貿易は必要だったので、南蛮船が長崎へ来航していた。ただし、ずっと右肩上がりだった市場が、秀吉のポルトガル船来航禁止令(1639年)で突然バブルがはじけたわけではない。

 

 

述べ数百人のアフリカ人」の方は、日本に滞在や居住していたアフリカ人すべての姓名と出身地が記された確たる名簿があるわけではない。「一六三〇年代までの期間」に長崎に来航したポルトガル船の数から推測した「述べ数」だろう。

どのくらいのアフリカ人(カフル人)が、南蛮船が長崎に来航したときだけの一時的な滞在ではなく、日本に居住していたのだろうか?

 

コックス日記など、日本に滞在や居住していたアフリカ人(カフル人、黒坊、Curobo)が記録に残っている。平戸藩主松浦隆信、熊本藩主の加藤清正や因幡藩主の亀井茲矩、長崎奉行の長谷川藤継が所有していた記録で、手の指で数えられる程度の人数だった。いずれも1600年代。

この話題を調べると、長崎に住むカフル人たちが飲酒や乱暴狼藉で度々市中で騒ぎを起こしていた、という記述を読んだことがあると思う。記録に残っているのは1625年(『大航海時代の日本人奴隷』ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子 著、p.216)で、ポルトガル船の来航禁止令が近い時期だ。

 

ポルトガル船やスペイン船では、貿易商や宣教師はアフリカ人(カフル人、黒人)を、ほかの人種と比べて健康で屈強、また強面であり、高い商品価値を持っていたから、彼らを従者として連れていることが「富貴」の象徴とみなされていたという。

しかし、ポルトガル船の来航禁止令が近いころには、アフリカ人(カフル人、黒人)を雇うことが南蛮貿易に有利だったとしても、西国の大名がこぞってカフル人を召し抱えるような動機は薄かっただろう。開港から40~50年もたてば、すでに権益を握った大名や商人が圧倒的に有利だし、規制強化が進むトレンド下では新規の取引先の開拓は難しかっただろう。

さらにポルトガルの側の事情や、イエズス会による日本人の奴隷取引の禁止(1597年)など、大航海時代のなか、16世紀には当たり前に行われていた奴隷貿易市場の変化も影響しただろう。

述べ数百人のアフリカ人」とは、主に1571年〜1639年の「一六三〇年代までの期間」に、長崎など南蛮船が立ち寄った地域をもとにした述べ人数と考えるのが蓋然性が高い。

 

 

もちろん、長崎に住むカフル人たちはとても多かったのに、1625年まで記録に残るような犯罪行為や迷惑行為を一切していなかった、だから当局の記録に残らず歴史的に可視化されていないだけなんだ!、といった能天気な指摘がされたとしてもその可能性はゼロだとは言わない(苦笑)
むしろ、それよりも可能性が高いのは、長崎に到着したあとに船主・雇用主との雇用が解消されたり置き去りにされたり、奴隷の身分から長崎で解放(年季契約の終了や終身契約からの身請け)されたことで、そのまま長崎に住んでいたケースではないだろうか。

 

長崎との交易の拠点であるマカオでは1625年に、男性住民を対象とした人口調査が行われている。ポルトガル系またはヨーロッパ系の男性が357人、混血の男性は411人、外国人は75人住んでいた。(『大航海時代の日本人奴隷』,p.100) マカオですらその程度だった。

1630年代の長崎に「数百人のアフリカ人が定住していた」と考えるのは無理がある。

 

 

 

トーマス・ロックリー氏の『African Samurai: The True Story of Yasuke, a Legendary Black Warrior in Feudal Japan.』は、当ブログ管理人は未読なので、直接に検証はしていない。

実際に読まれた方から、ロックリー氏は、日本語の著作『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』ではあいまいな表現を使っているが、英語版の『African Samurai: The True Story of Yasuke, a Legendary Black Warrior in Feudal Japan.』の方では断定的な表現を使っている、という指摘をいくつも見かけた。

 

似た例として、たとえば『African Samurai』出版後の、BookPageによる2019年5月のインタビューでは、「西日本には少なくとも 300〜500 人のアフリカ人が住んでいました。一時滞在者を含めるとさらに数千人が住んでいました。」と断定的に述べている。

当時の西日本に「外国人が数万人住んでいた」と聞いてどう感じられるだろうか?

Out of the past - Behind the Book by Thomas LockleyOut of the past

日本は単一民族だと思われがちですが、弥助がいた時代の前後の数十年間に、西日本には少なくとも 300〜500 人のアフリカ人が住んでいました。一時滞在者を含めるとさらに数千人が住んでいました。その他の外国人は数万人に上りました。(一部だけ抄訳した)

As the swell of interest increased, I made an interesting discovery about Japan—one that, as an immigrant to that country, came as a surprise. The country of Japan is often thought of as racially homogeneous, but in the decades before and after Yasuke’s time, there were at least 300 to 500 Africans living in western Japan and several thousand more if you include temporary visitors. Of other foreigners, there were tens of thousands. Japan was far more diverse historically than people believe, and as Japanese cities move speedily toward multiculturalism, and as mixed-heritage sports stars such as Naomi Osaka and Asuka Cambridge find global success, Yasuke’s story again bears relevance to the present day. 
(赤字協調は管理人による)

テニス選手の大坂なおみや陸上競技のケンブリッジ飛鳥という有名人を引き合いに出しているあたり、ここでも弥助を同じようなヒーローとして見せたい意識が感じられる。
(著者インタビューでのことなので、大風呂敷な発言も分からなくもない🙂)

 

”弥助がいた時代の前後の数十年間 (in the decades before and after Yasuke’s time”を、述べ数を数える期間ではなく、数十年という長期間にわたって、数百人のアフリカ人、数万人の外国人が日本に定住していたと誤ってイメージした読者もいただろう。

南蛮船の船員や、貿易商や宣教師に雇われて来航した一時滞在者を分けて話しているので、ロックリー氏が述べた「300〜500 人のアフリカ人が住んでいた」とは日本国内になんらかの居住地があった人々だとイメージされる。そのロックリー氏が著作『信長と弥助』では「一六三〇年代までの期間に、述べ数百人のアフリカ人が日本に居住していたとみられている。」と書いている。

16世紀後半から50年ほどの間に、ピーク時の総数ではない、数十年間の”のべ数”で数百人(300~500人?)が、通訳や護衛や芸能(有力者の前での見せ物など?)、肉体労働のため滞在していたと考えられる。

江戸時代に入る前、戦国時代の混乱期ならまだ、異邦人が居場所を見つけられる余地は大きかっただろうから、中には、雇い主を変えたり居住地を変えたカフル人もいたのかもしれない。定住は難しかったと思うが。

 

16世紀後半から17世紀はじめの日本に「数千人のアフリカ人が定住していた」わけではない。「黒人奴隷が1000人」いたわけではないし「黒人侍が1000人」いたわけでもない。

 

ロックリー氏の著作(日本語、英語)を読まれた複数の方のコメントを読むと、アカデミックな論文としては、参照している文献の中には内容に問題があるという指摘もあった。そういった問題ある文献の検証をせず、弥助をヒーローとして描くために使えるものを切り出したように感じられた。

 

 

ゲーム『アサシン・クリード (Assassin's Creed)』シリーズで開発中の、日本の戦国時代を舞台とした『Assassin's Creed SHADOWS』の主人公「弥助 (YASUKE)」の描写が疑問視され、流言やデマ、生成AIを使ったフェイク画像が出回って、”炎上”をしていた。

日本はじめネットSNSで炎上をしたあとに、開発元のユー・ビー・アイ・ソフト (UBI Japan)が、『アサシン・クリード』シリーズのゲームは、あくまでも歴史上の実在の出来事や人物にインスパイアされたフィクション作品であり、創作表現の自由を活かしてファンタジーの要素を取り入れてきたとして、「ゲーム内における弥助は、そうした創作表現の一例です。」とX(Twitter)の公式アカウントで日本語と英語で説明をした。

これによって、ネットSNSでは、積極的に探さなければ見かけることはなくなったように思う。
(この話題に積極的に接している人や、そのコミュニティの中にいる人にとっては日常かもしれないが)

こういったデマやフェイクで炎上した話題は、後になって、数ヶ月や数年も経ったころに「実はこうだった」「これが真実だ」みたいな陰謀論が出てくる場合もある。

狭い文化コミュニティや地域の中で、「これが真実だ」が常識として語られ、政治的な真実として受け継がれて場合もあるかもしれない。デマを拡散させず、事実に基づいた検証、そして忘れないことが大事だ。

 

 

 

トーマス・ロックリー氏への、『African Samurai: The True Story of Yasuke, a Legendary Black Warrior in Feudal Japan.』出版後のインタビューはあちこちに残っている。

Out of the past - Behind the Book by Thomas LockleyOut of the past

Who Was The Real Yasuke? The Story Of Japan's Black Samurai | HistoryExtra

The African Samurai: The True Story of Yasuke, Japan's Legendary Black Warrior | Tokyo Weekender

《支援者インタビュー》 難民として逃れた祖母の存在を胸にー本能寺の変にいた「アフリカン・サムライ」から日本史を描く:ロックリー・トーマスさん | 認定NPO法人 難民支援協会

 

 

Thomas Lockley | Nihon University - Academia.edu

岡 美穂子 (Mihoko Oka) - マイポータル - researchmap

トーマス・ロックリー - Wikipedia

Thomas Lockley - Wikipedia

 

List of foreign-born samurai in Japan - Wikipedia

 

江戸時代に九州で書かれた軍記物9冊ほど現代語訳した有識者が、黒人の記述は一切無かったと断言でき、九州の民衆にとって黒人は興味の対象外だったと推測される話 - Togetter [トゥギャッター]

「弥助」問題で「ロックリー氏日大解雇を」署名開始、氏に批判的な人も反対論…「キャンセルカルチャー側に”堕ちる”な」 - Togetter [トゥギャッター]

https://www.reddit.com/r/KotakuInAction/comments/1dxf2yd/comment/lc1845d/

Who Was Yasuke, Japan's First Black Samurai? | Smithsonian